正善寺だより「聞・聞・聞」第82号より
「カエルの子はカエル」という言葉があります。
カエルは人間で言えば成人して大人になった姿ですから、カエルの子はおたまじゃくしと言った方がふさわしいように思えます。
しかし、なぜ「おたまじゃくし」とは言わずにあえて「カエル」と言うのでしょうか。どうやらこの言葉には肝心な部分が省略されているようです。「カエルの子はカエル」というのは、正確には「カエルの子はカエルになる」というのが本来の言葉のようです。カエルの子(おたまじゃくし)はカエルが育てるからカエルになる。つまり、育てる親によって子どもは何にでもなるということを言わんとした言葉のようです。
そう考えてみるならば、人間にも同じことが言えるように思います。人間が大人になることを「成人」と言います。法律では二十歳という規定がありますが、そのような枠組みは別にして、「成人」の熟語だけを味わってみるならば、文字通り、「人に成る」ということです。私たち人間も生まれながらに人であるのではなくて、人によって人として育てられて、人に成っていくのだと言う意味でありましょう。
数十年前に「狼少女」と騒がれた少女がいました。彼女は人として生まれながらも、どういう訳か、狼に育てられたばかりに、人間の生活に戻ることができずに、十七歳と言う若さで亡くなりました。せっかく人として生まれながらも、狼を親とした結果、本当の意味で人間らしく生きる道を絶たれてしまいました。
これは人間に限ってのことでしょうが、親子が互いに殺め合うという事件が後を絶ちません。そんなに単純ではないのかもしれませんが、「生まれてくれてありがとう」と言う親の元には、「生んでくれてありがとう」という子が育ち、「生んでやった(生むつもりはなかった)」という親の元には、「生んでくれなんて頼んだ覚えはない」という子が育つのでしょう。お釈迦様の縁起の道理とは、まさにそのような教えではないでしょうか。
「親子は同じ年」と師から教わりました。親は子が生まれてくれたからこそ初めて親となることができるのであり、子もまた同じですね。片方だけでは決して存在が成り立たない関係を縁起というのです。そう考えてみれば、夫婦も兄弟姉妹も全部そうですね。
カエルの子(おたまじゃくし)がカエルを親としてカエルに育てられるからこそカエルになっていくように、私たち生きとし生けるものが、阿弥陀さまを親として、阿弥陀さまのお育てにあずかったならば、どうしようもないこの私にも、必ず仏となる道があるということができるのではないでしょうか。
お互いのいのちの中に仏さまを感じて、「ありがとう」と掌が合わさり、頭が下ってゆく世界は、もうすでに浄土の入り口なのです。
「法話が好きになる本」より