正善寺だより「聞・聞・聞」第85号より
現下の社会状況の中で、人間として生きるには何が最も必要なのだろうか。
何よりも内を
見る目が開かれることこそ必要ではないか。
ある所でお話を終わって部屋に帰ると、お寺の総代さんが挨拶にみえ、そこでの話である。
この総代さんは半月ほど前までに、その町の町長を三期務められた。そうした自己紹介の後で、
こうおっしゃる。
「先生、人間というものは薄情なもんですね」と。
私はすかさず、
「他人が
薄情に見えるときは、わが身の薄情なしるしと思えと、お釈迦さまは教えて下さいますがね」
と。
すると、この総代さんはすこしムッとなさった。そこで私は尋ねた。
「あなたはなぜ他人
が薄情だと言うのか」と。
総代さんの言うには、自分が町長在職中には、いろいろな人が朝早くからいろりの所まで上
がりこんで来て、あれを頼む、これをお願いしますと、頭を下げて行ったのです。また、道で
会っても丁寧におじぎをしてくれました。ところが町長を辞めると、十日もたたぬうちに、ひ
どい者は道で会っても挨拶もしなくなる。あの人にもずいぶん世話をしてやったのになあと思
うと、人間というものは何と薄情な者だと思うという。
そこで私はこう尋ねた。
「あなたは先ほどの話で、一週間ほど前に県庁へ挨拶まわりに行っ
てきたと言うておられましたね。挨拶まわりは長い間お世話になったお礼でしょうが、まあ知
事や部長や各課長へは挨拶なさったでしょうが、課長補佐や係長へはどうですか」と。
すると
「いや、そこまで挨拶しとるわけにはいかなかった」という。
そこで私はこう話した。
「そうですか。それでは、あなたが帰った後で、各課ではどういうていたでしょうね。あの
町長も在職中にものを頼む時は、課長どころか係りの我々の所まで頼みに来たが、辞めたら課長止まりか。何と薄情なものだ。こう言うてないでしょうかね。そうすると、お釈迦様のお
言葉にうそ偽りはないでしょう。それから、もう一つ大事なことがある。在職中に皆があなた
に頭を下げたのは、あなたを尊んだのではない。言うてみれば、砂糖の入ったガラス瓶に蟻が
たかるようなものだ。砂糖が目当てなのです。砂糖のないガラス瓶に蟻はたかりません。皆は
町長という権力の汁が欲しくてやってきたのでしょう。だから、町長を辞めたあなたに頭を下
げなくなったのは当然です。あなたにはもう吸う権力の甘い汁はないものね。その人たちは新
しい町長の所に頭を下げて、甘い汁を吸いに行ってますよ。この厳然たる事実に目を覚ますこ
とが大事なのではないですかね。いつまでも、『してやったぞ』を握りしめて、苦悩の中を生
きねばならないこの身に目覚めることが大切なことではないですか」
我らに今必要なものは鏡ではないか。この身を明らかに照らし出す鏡。
「教は経なり鏡なり」
という。
聞法によって本当の自分にであって目覚めて生きるということが、この騒々しい生き
ざまの中に身を置く現代人に要請されているのではないか。いつでも自分の見える所に立って
生きてゆきたいものである。
松扉哲雄