正善寺だより「聞・聞・聞」第86号より
仏さまと私の関係は、私が、仏さまを探し求めているのか、仏さまが、わたしを追い求めているのか、どちらであろうか、これが問題になるところです。そして、他力のみ教えの中でも、絶対他力の救いを、深く味わわれた親鸞聖人のお心うちには、「み仏われを追いたもう」という思いが、常におありでありました。
蓮如上人の語録『蓮如上人御一代記聞書』を見ますと、徳大寺の唯蓮坊が、「摂取不捨」(阿弥陀仏が、衆生を摂め取って捨てないとの誓い)の道理を知りたい、と願いながら眠ったところ、夢の中に、阿弥陀如来が現われ、思わず逃げようとしたら、袖をとらえて、離されなかった―という話が出ています。その話を聞いた蓮如上人は、たいへん喜ばれて、それからは、この話をいつも引用されたとあります。
「摂取といふは、にぐるものをとらへておきたまふやうなること」と上人は語られています。
仏と私の関係は、私の方が、仏に追われているということです。
水に溺れている人を救うには、溺れている人をつかみとる力強い腕をもった人が必要です。溺れて苦しんでいる人に向かって、縄を投げ、すがりなさいといっても、すがれる人もあり、すがれぬ人もいるでしょう。
一切衆生を、一人ももらさずに救うには、救い手が救われるものをとらえて放さぬことが肝心です。
わたしゃ あなたに おがまれて たすかってくれと おがまれてごおんうれしや なむあみだぶつ
と浅原才市さんは、また歌っています。
また、民俗学の、柳宗悦氏は、その『心偈・こころのうた』の中で、
追フヤ 仏ヲ 追ワレツルニ
と歌いました。
この意味は、「あなたは仏を追うのですか、ずっと昔から仏に追われているのに・・・・・」ということです。
信心すること、念仏すること、合掌すること、救い摂られて仏になること、そのすべては、仏さまの「一人ばたらき」の中で行われているのです。
これが、他力のみ教えの、手離しの救いということです。私の我執が、そのまま、み仏の手の中で無力にされてしまいます。仏さまに追われ、摂られ、絶対に捨てられないところに安心の世界があります。
そして、仏さまが、必ず救いたいというその願いを、私に届くような「音」(声)にして下さったのが、「ナモアミダブツ」です。
南無阿弥陀仏という漢字の表現方法を使いますが、その響きは、阿弥陀仏が、すべてをそのまま救いたいとの心の表われとして、私に与えられているのです。願いとは、心のことですから私には見えません。私の心に触れ、身に伝わるようにその願いを作り上げてくださったのが、「南無阿弥陀仏」です。私が、どこまでも仏さまから願いをかけられていることが、ナモアミダブツから伝わってまいります。
わたしや わすれてくらすのに わすれなさらぬ 親さまは なむあみだぶでござります さいち
「こころに花を」より